「生きていたくない」との奮闘記

生きることに前向きになれない人の手記

仕事に「嫌」を感じると続けられなくなる理由を考える

私が自分がどうでも良いと感じると同時に、軽んじることをしないように行動する節がある。このふたつは、自分の中で矛盾していると同時に確実に共存していることであり、この性質や考え方を持っている故に、一度でも辞める可能性を感じてしまうと十中八九行動に移すことを止められずに生きてきた。具体的な数字で言うと、5社中4社は一度「退職」の可能性を感じた半年以内に退職している。何度もその可能性を乗り越えられたのは1社だけだった。その1社が現職というわけではなく、最終的には離れる結果に終わっている。

ジョブホッパーで許されたいという本音

今後また考え方が変わる可能性は大いにあるが、現時点で私はジョブホップに関して前向きだ。正直、同じ仕事をずっと続けて極めるとか、極める道は目指さなくとも淡々と割り切って続けるとか、そのどちらにも熱量を感じない。唯一感じるのは「新しいことへのワクワク感」だけである。しかしそれが通用しにくい社会とのギャップに生きづらさを感じている次第だ。

もちろん、新しいことへの挑戦権は自分が努力してスキルアップしたり信頼を得ることで巡ってくる側面も理解しているが、ぶっちゃけ本音は「自分が努力してようがしてなかろうが、スキルがあろうがなかろうが数か月~1年ごとくらいに完全に新しい仕事をしてみたい」である。とりあえずやらせてみて、びっくりするくらい自分に合っていればずっと続けていくからさ!という凡そ経営者目線では「そんな余裕ないぜ」と言わしめる自分勝手な本音。

おそらく、何かを教わって自分なりにアウトプットができるようになっていく過程に楽しみを感じているのだと思う。思い返すと、割と学校での勉強の理解力やアウトプット(テスト)は得意な方だった。そして、ある程度できるようになると飽きてくるのだ。その先にまだまだ極められることや生み出せること、挑戦できることが見えていても極めることに興味が持てない。ある程度理解すると、もうすべてリセットして次の真新しい世界を見たくなる。そこには、今関わっている人も含めたリセットを望む気持ちも含まれている。

バーンアウト燃え尽き症候群)という可能性

以下の記事を読んで、とても納得感があったので共有したい。

news.yahoo.co.jp

バーンアウトっていうのは、字面から見ると仕事を覚えたてのような状態より何かプロジェクトを完遂させたあととか、大きな仕事がひと段落した時の方を指すほうがしっくりくるが、私のように自分への「できた」のハードルが低く浅い人には上辺の上辺だけの理解だけでもある種感じることのあるものだ。

少し自惚れかもしれないが、物事への理解がまぁまぁ早い初期優等生みたいな素質も持っている私なので、数か月で2年分くらい理解して、もちろんその先に5年や10年レベルの理解度もあることを察しつつも「新卒がある程度仕事できるようになってきたと言われるレベルに達した」ことが「人並以上まで到達したからもう飽きた・・・」になってしまうのだろう。器用貧乏というやつか。

上記の記事ではバーンアウトに対して企業側や医療から何ができるのか という視点で組み立てがされており、使われる側としては何ともありがたく「そうだそうだ!」と言いたいところだが、現実問題、いろんな意味で余裕のある企業にしか考えられない余白の部分であることも十分理解できる。人を人と思わない、使い捨ての駒や奴隷のように扱ってポーイってしても成り立つモデルがあれば、そうする企業、そうせざるを得ない企業は無くならないだろう。そしてそんな企業が1社でも存在する限り、任意の範疇を出ない。理想を追い求めるのは難しい。

先細りの道が突如大きく開ける日を夢みて

正解は時代によって移ろいで行くが、ステップアップしていくジョブホッパーではなく、ただただ新しいナニカを求めるタイプのジョブホッパーが、現状自分の首を絞めがちなのは言うまでもない。これが良きかなとされ、なんかうまく社会とマッチしていれば良いのだが、そんな会社作りやビジネスのモデルは今のところなく、できればホッピングの末に腰を据えて長く続けられる場所を見つけられるに越したことはないのだ。

だけど、それが見つかるとは限らず、見つからない限り先細りの道をかき分けかき分け進むしかないことには、ストレスを感じざるを得ない。

仮に見つからなくても何とかなるだろうという資産か、賢さか、能力があればなぁ。資本主義の日本社会でどうにか生き延びる術を求める本能が、ほどほどの納得感で妥協せよとどこかで訴えてくる。そんな人生なら今すぐ生存権を放棄したいという自己主張が反発する。どちらが正しいかはきっと一生わからないし、おそらく答えはないのだろう。